森博嗣 茂木健一郎 すべてがFになる 捨てる メフィスト ポストモダン ソーカル事件

なぜ茂木健一郎は森博嗣のすべてがFになるをゴミ箱に捨てたのか? 導入・経緯説明編

Posted by


森博嗣を読んだ茂木健一郎は激昂した

脳内参照リソース不足である人間によって運営されている当サイトは長らく森博嗣作品と脳科学者・茂木健一郎氏に関するネタを投稿してきた。
これには管理人の能力以外の理由も実は在る。
それがこの記事のタイトルである、なぜ茂木健一郎は森博嗣のすべてがFになるをゴミ箱に捨てたのか?にある。
意味が分からないかもしれない。一体何の話をしているんだ、と思うかもしれない。
実は、この一見すると接点のなさそうな二人をつなぐブリッジが存在するのだ。

一体何があったのか

事態は2005年1月31日の茂木健一郎によるクオリア日記に全てある。
当日の日記で、茂木は忙殺状態にあり精神的にもかなり追い詰められている様子が記されている。
当日締切の「大仕事」を処理しながら、論文作業も進める。そんな状況であっても散歩を終えた茂木は新潮を読み耽る。この辺り、メンタルタフネスが鍛えられたインテリぽいではないか。
中身は浅田彰、柄谷行人、鵜飼哲鼎談と大森望、豊崎由美の「文学賞メッタ斬り!」である。
取り組んでいる科学分野(conventional scienceと元ブログでは表されている)が持つ知の体系と浅田、柄谷、鵜飼が語るジャック・デリダ論を比して、茂木はふと思う。

無茶苦茶な世界に生きているなあと思う。その無茶苦茶さが、シミジミ面白い。

茂木は従来からの科学の在り方はある文脈ではゴミ屑(元記事ではarse hole)であることを、同新潮に連載されている保坂和志の

「利根川進みたいな能天気なヤツは、あと十年とか二十年で記憶が解明されて、あと百年以内に意識の全貌が解明されるとか言っているけれども、全然無理なんじゃないか?」

という文章を引き合いに出し、具体例として示している。

ある思想の文脈の中では、科学者は能天気に見える。

一方で、婉曲的にソーカル事件に言及した上で

別の文脈ではポストモダンの哲学者はふにゃふにゃの思想入れ歯人間に見える。

と書いており、科学と哲学の双方がズレてしまっていることを指摘している。

両者をどう結んだらいいのか。図太い補助線を引かなければ、この世界はずっと分裂したままだろう。

続いて、同様のコンテクストを用いて、同雑誌の大森望、豊崎由美の「文学賞メッタ斬り!」についても触れて、今までの小説の在り方だけを擁護する立場と新しい小説の流れを無批判的に首肯する立場の両方を批判している。
そして、再度、離れてしまっている両方を見る別の眼差しの必要性を訴えている。

要するに世界は分裂してしまっているのだから、誰かが補助線を引いて、見通しを良くするしかない。

夏目漱石やカフカといった古典文学だけは別格である旨を肯定的に書いて記事の締めくくりとしている。

森博嗣・茂木健一郎事件の核心

さて、肝心の森博嗣が登場するのは大森望と豊崎由美の対談の下りで、茂木がメフィスト賞について言及する箇所である。
過去に茂木は、『文學界の連載「脳のなかの文学」 第7回(2004年10月号) 「スカ」の現代を抱きしめて』の中で舞城王太郎の作品を批判的に取り上げたらしい。
それはメフィスト賞作家である舞城王太郎氏が2004年に発表し、芥川賞候補作にもなかった「好き好き大好き超愛してる。」であった。
茂木曰く、

スカ」の現代を象徴する作品として批判した。

そして唐突に、

森博嗣さんの「すべてがFになる」は、沖縄のビーチで下半身海に浸かりながら読み、あったま来てゴミ箱に捨てた。

と攻撃的とも取れる一行が現れる。
そう、日付こそ記されていないから何時かは分からないが、確かに茂木健一郎は森博嗣の「すべてがFになる」をゴミ箱に捨てたのだ。
これでようやく本題に入れる。

では、なぜ茂木は森博嗣を読んで頭に来たのか?

茂木が「すべてがFになる」を捨てたのは結果である。その前にどうやら茂木は「あったまに来た」らしい。
あったまに来なければ小説をゴミ箱に放ることもなかっただろうから、こちらを分析してみるのが良いだろう。
しかし、この記事が書かれたのは2005年の頭で実際に茂木が「すべてがFになる」を読んだのはもっと前と推察される。
もう少し注意深く見てみるための補助線が必要だ。
茂木の言い回しを援用するなら、2005年の茂木の心情だけを現代を生きる我々が素朴に受け取るのはあまりに頭が悪すぎるし、今のポリコレ全開の茂木を肯定的に捉えるあまりに氏の過去の森作品に対する憤怒をなかったことにするのは情に欠けて人間味がない。
というわけで、ここに別のブログ記事がある。2016年5月18日の現在も続いているLINEブログの記事だ。
別記事でも触れた恒例の「脳なんでも相談室」に寄せられて無垢な茂木健一郎ファンからの相談というよりは質問である。

突然ですが、茂木先生は森博嗣氏の小説は読まれたことがありますか?シリーズものがいくつもあるのですが、『すべてはFになる』から始まるS&Mシリーズの主要なキャラクターである、犀川創平氏のイメージが私の中ではなぜか茂木先生とドンピシャです。体格は違うので、自分でも理由はわからないのですが、いつも茂木先生の顔を思い浮かべながら読んでしまいます。もし、読んだことがあるようでしたら、茂木先生の思う犀川先生のイメージを知りたいです。

どうやら質問者は素朴すぎて「茂木健一郎 森博嗣」というワードでぐぐることすら出来ないらしい。ぐぐると1ページに件のブログポストは出てくる。
あるいはこのFゴミ箱事件を知った上で質問している。
犀川と茂木の体型が違う、という皮肉満載の文章を本人宛に送ってくるあたり、真性のアレな人か相当の皮肉屋とだろうと推察される。
そして、茂木の回答がまたすごい。

はい、以前拝読しました。
犀川先生には、理系ならではのクールなマインドが、よく表現されていると思います。
最近では、アメリカのTVシリーズ『Big Bang Theory』に通じるような何かを感じます。
イメージを重ねてくださって、光栄です(笑)

こちらもめちゃくちゃに嫌味が効いている。
犀川を指して理系ならではのクールマインドと言うだけではあればポジティブかネガティブに捉えているかは半々といった可能性もあるが、続いて「Big Bang Theory」を挙げているあたりでネガティブに確定する。
ビッグバンセオリーはアメリカの長寿ドラマシリーズでカルテックのナードな物理学者をメインキャラとして、一般人とのズレから生じる日常のドタバタ劇を描いている「コメディ」である。英語ではSitcom(situation comedy)という。
つまり、茂木健一郎は森博嗣作品とは犀川創平を始めとする知的なキャラクタ群(もちろん、そこには真賀田四季や瀬在丸紅子も含まれる)による理系お笑い小説だと言い切っているのである。
茂木健一郎はめちゃくちゃ森博嗣作品(とそれを有難がる読者)を馬鹿にしていることが分かる。
しかも、元記事のコメント欄を見ると質問者であるきりんさんはとても嬉しそうに質問に答えてくれたことに対して感謝を述べている。
これも演技なのかガチなのか判断がつかない。
ただ言えるのは、茂木健一郎の本音部分に気づかずに本当にお礼を言っているのであれば、きりんさんは相当に頭がアレな方だということが分かるということである。
肝心の、なぜ茂木健一郎は森博嗣のすべてがFになるをゴミ箱に捨てたのか?という部分に答えられていない。

経緯について書いたら予想外に長くなってしまったので、続きは別に書こうと思う。

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *