森博嗣 茂木健一郎 すべてがFになる 捨てる メフィスト ポストモダン ソーカル事件

なぜ茂木健一郎は森博嗣のすべてがFになるをゴミ箱に捨てたのか? 総括編

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経緯説明はこちらを参照してほしい。
というわけで、どういった理由で茂木健一は沖縄で海に下半身を浸かりながら読んでいた「すべてがFになる」をゴミ箱に投げ捨てなければならなかったのか?
前の記事でほとんど明らかになった事柄について説明していかなければならない。

気楽にまとめよう

茂木は自身が所属する科学コミュニティとポストモダンを代表とする思想界の両者のそれぞれがある違う文脈では有効性を示さないことを看過した。
その溝を埋めるための両者をつなぐための大きなものの存在を希求している。
そして、同様の世界間のズレを文学にも発見した。それは今までの文学とメフィスト賞作品との間に見出されるらしい。
アカデミズムと文学という異なる世界で共通の課題が横たわっているということは、この問題自体が現代の諸々に通底するものであると茂木は捉えているのかもしれない。
森博嗣について見てみよう。
彼は工学博士という理系アカデミズムの人間である。
一方で文学においては異端あるいは色物(と少なくとも同時は見做されていた)であるメフィスト賞の記念すべき第一回を受賞してデビューを果たした作家である。
同じく博士号を持ち、古典文学をこよなく愛する茂木から見るとさぞバランス感覚を欠いた人間として映るに違いない。
真賀田四季の設定が深いようでどこか底抜けである、という印象は森博嗣作品が好きである俺も同意できる。
重ねて悪いことに、舞城王太郎は第19回メフィスト賞を受賞している。文學界の連載で舞城王太郎の作品を否定的に取り扱った茂木からすると森博嗣は舞城王太郎の大先輩でありアーチ・エネミーである。
もし、森博嗣作品に文系的な教養と会話が挟み込まれていたら自体は180度変わっていた可能性がある。
しかし、残念ながら、かくして茂木健一郎は「すべてがFになる」を読み、激昂してゴミ箱に投げ捨てたのであった。

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