1998年に発表された本作「夏のレプリカ」を2017年の今解説する残念、企画へようこそ。

なぜ今さら夏のレプリカを解説するのか

まずは本物語の中から簑沢杜萌と犀川創平のやり取りを引用しよう。

「犀川先生は、萌絵のどこが気に入ったのですか?」思い切って杜萌は質問した。自分らしい大胆な質問だと思った。
「その質問をする君が、興味深い」犀川は煙草に火をつける。「質問は、質問する人を表現するんだ。それに対する返答なんかとは無関係にね」

俺が発売からほとんど20年越しで解説しようと決意した意図はこの会話に凝縮されている。
簡潔に書くと、この作品についての質問を思いついてしまったからである。
詳しいことは、森博嗣作品の解釈について書いた、この記事を読んでもらいたい。

夏のレプリカへの導入

S&Mシリーズの白眉

全10巻あるシリーズの中でも夏のレプリカは浮いている作品だといっていい。
密室殺人は登場しないし、メイントリックも「まあ」といった感じではある。
「いいのよ、殺しても」という簑沢杜萌の言葉の印象が初めと終わりで大きく変わる、という着想が先にあって、物語が構築された感すらある。
なので、その点に着目するとクリストファー・ノーランのMementoが思い起こされる小説だ。
だけれど、それはまだ表層の話であって、もっと深く物語世界に潜ることができる。
その為に、夏のレプリカは白眉、足り得るのである。
それについて書いていくとしよう。

昔、読んだ人のために

繰り返すが結構前に発表された作品なので内容について曖昧な人もいると思うので、軽くあらすじを押さえてから解説に入りたいと思う。

明示された問題としてのあらすじ

萌絵の親友である簑沢杜萌を主軸として本作は動いていく。
杜萌は優秀な頭脳を持ち、都内の名門大学の大学院生である。
そんな彼女が激しい恋愛の渦中にあり、その背景にある事情を萌絵にすら話せないでいることへの困惑と葛藤が描写されるところから始まる。
杜萌は2年ぶりに実家の屋敷に帰省するが、そこに居るのは家政婦の佐伯と部屋に閉じ込められている兄の素生のみであり、他の家族(両親、姉)の姿はない。
翌日になっても家族は帰ってこず、電話で家政婦に尋ねると雇い主であり杜萌の父である泰史から数日家を留守にする、と連絡があったと告げられる。兄の部屋には鍵がかかっていて入ることが出来ない。
そこへ仮面をつけた男が屋敷に侵入してピストルを杜萌に向ける。
杜萌以外の家族は誘拐されて別の場所に幽閉されているのだと知った杜萌は状況を理解しある行動を起こすことにする……。
そこで発せられる言葉が「いいのよ、殺しても」。
別荘にいる誘拐犯グループから指示をされた杜萌は屋敷の金庫に仕舞われた現金を別荘まで運ぶ。
そこで男女(鳥井恵吾と清水千亜希)の死体が見つかる。お互いに銃を持っており、同士討ちしたと見られる。
現場に残された仮面には実行犯のリーダとされる赤松浩徳の体液が付着している。
警察は、赤松が杜萌を脅迫しお金を金庫から出して、別荘を訪れたところ、仲間二人の死体を発見して、お金を持って逃走した、と推測して捜査を始める。
また事件後、部屋に閉じ込められているとされていた素生の姿が見つからず、失踪事件が起きたとされる。
素生失踪については後で詳しく説明する。
まずは明示された謎である物語のメインの殺人を見ていこう。

殺人事件の真相

20年前の作品なので、思いっきりネタバレする。
杜萌の恋愛相手は誘拐グループの赤松である。
杜萌の父親が政治家であることを知った赤松は金銭目的の誘拐計画を思いつく。
清水千亜希は赤松の元恋人であり、杜萌はそのことが許せずに激しく嫉妬していた。この計画の実行と合わせて赤松は元恋人である清水と鳥井を自身で殺すと杜萌に約束する。しかし、具体的な実行日さえ教えてくれない赤松に対して杜萌は完全には信用できないでいる。
仮面の男が屋敷にやってきたことで、計画が決行されたことを察知した杜萌は、隠し持っていたピストルで鳥井を射殺する。
「いいのよ、殺しても」は杜萌の側が仮面の男を殺してもいいんだよ、という意味であった、という落ち。
赤松は他の家族を誘拐し、別荘から鳥井へ指示をだして金庫のお金を持ってこさせる予定であった。
しかし、杜萌が鳥井を殺したことを知り、決意を固めた赤松は清水を殺す。
鳥井の死体、現金と未使用の仮面を持って別荘へやってきた杜萌を出迎えた赤松は、二人の死体をワゴンに移し、銃を持たせて同士討ちを装う。鳥井が被っていた仮面は鳥井の体液がついている上に杜萌の発泡で穴が空いているので処分をするために、現金と共に持ち去る。新しい仮面を被った後に現場に捨て去ることで杜萌を襲った仮面の男は赤松であるとアリバイ工作をする。
しかし、この穴の空いた仮面が警察によって発見され、違和感となることで事件の真相解明へと繋がる。
次は暗示された問題である。

夏のレプリカの暗示された問題

答えが明かされるもの

簑沢杜萌の兄であり、物語中で失踪あるいは誘拐されたとされる素生に関する謎である。

素生は誘拐されたのか

これに関してはとリッキィな回答をしたいと思う。作品を読むまでもなく、これは否定できる。
なぜなら、作者である森博嗣が「幻惑の死と使途」と「夏のレプリカ」に仕掛けを施しているからである。
「幻惑の死と使途」と本作「夏のレプリカ」は同じ時期に起きた2つの事件をそれぞれ別にまとめあげた小説になっている。目次の章が「幻惑の死と使途」では奇数のみ、「夏のレプリカ」では偶数のみとなっている趣向はこのためである。
注目しなければならないのは、作者の森が「2つの事件」と書いている点である。つまり、3つ目の事件は存在しないことになる。屁理屈だと思われるかもしれないが森博嗣という人格を知っている読者であれば、氏が屁理屈による解釈に満ちた言葉の解釈をすることは納得いくだろう。
物語で簑沢家誘拐と鳥井清水殺人の2つの事件が現れるではないか、と反論したくなるだろうが、赤松と簑沢杜萌にとってはこれらは繋がっており、単一の事件であるのだ。
だから、そこに素生の誘拐あるいは失踪という新しい事件があったのでは、「幻惑の死と使途」と「夏のレプリカ」の2作をつなぐコンセプトが崩れてしまう。したがって素生は誘拐されていないし、失踪もしていないと即断することができる。
以上、変化球的な回答をしてみたが、ここに着目しなくても素生不在に対する家族の対応や、ひょこっと現れることになる素生自身の様子を見ればどちらも簡単に退けることができるだろう。

「僕を追わないで」を仕込んだのは誰か

これは杜萌の両親である。
事件後の杜萌の心理描写は終始、素生がいないことに対する不安や焦燥感にフォーカスされている。
普通、家族が誘拐されて、人も死んだとなれば考えるべきはこちらなのだけど、誘拐と殺人の実行犯は杜萌自身なので気を揉む必要性がある道理がないわけである。この辺りも、読者にとっては杜萌が事件に絡んでいることへのヒントになっている。
素生の心配ばかりしている杜萌を見て、不安になった両親は素生が過去にラジオ出演した際の音源を使って、電話がかかってきたと演出することで彼女を安心させようとする。
ここから、そもそも杜萌が2年ぶりに帰省してきた段階で既に素生は部屋に居らず、それは家族も了承済みであることを伺うことができる。

杜萌は素生を殺したのか

殺していない。
最後に素生が登場することから明らかである。
悲しいのは、小説の終わり近く、萌絵が真相を理解し杜萌に推理をぶつける。その後に全てを白状した杜萌は、精神が錯乱しはじめて過去の出来事を回想しはじめる。
その中で、自分が昔、兄である素生を殺してしまったのだと思い込むところまで彼女の精神は追い詰められていく。
杜萌は自分が兄を殺したのだと自責したまま赤松と共に萌絵のもとを去ることになる。

素生の目は見えるのか

素生の失踪が判明するのと同時に実は素生の失明は演技であり、実は健常者なのではないか、という話がでる。
しかし、これも物語最後に偶然、現れる素生が杖を持ち、サングラスをかけていることから彼の失明は本当だろうと考えることができる。

まあ、ここまでは本書を読めば書いてあることだからどうだって良いんだ。
暗示された上に答えが明かされない謎、つまりエヴィデンスのない問いこそが面白いのである。

ここまではあくまで導入であって、あらすじを通して明示されたメインの誘拐殺人事件と簑沢杜萌の兄である素生に関する物語で暗示された問いについては解説した。
こちらが本題であるエヴィデンスのない話を広げようという志向性によって書かれている。

答えが明かされない暗示された問題たち

クイーンとルークは誰を指すのか

杜萌はとても聡明である、ゆえに危うい部分を持ち合わせている。これは森博嗣の作品に登場する他のキャラクタにも共通する性質である。
物語の中では名前の類似点をはじめに杜萌はなにかと萌絵と対比される。
赤松と彼が所属するコミュニティに対する傾倒を見るに、杜萌の方がよりポテンシャルを持っているように映る。そして、その才能のせいで自滅する道を選んでしまう。
その二人が直接的に分かりやすい形で描かれる場面がある。
夏のレプリカの象徴的なシーンとして現れる西之園萌絵と簑沢杜萌の盤なしでのチェス対決である。
杜萌により潜在的な力があると書いたが、チェスにおいては萌絵の圧倒的なコンピューティングのために、彼女は負け通しである。
しかし、物語終盤で萌絵が杜萌宅を訪れて再びチェスで勝負をした際に杜萌が勝つ。これが杜萌の方がポテンシャルが高いという意味である。
萌絵は杜萌が取ったストラテジィから、事件の真相に辿り着く場面は感動的ですらある。
以下、その場面を引用しよう。

杜萌はそっと萌絵から離れ、立ち上がった。
彼女を見上げた萌絵の表情は、初めて本当に悲しそうに見えた。
「杜萌……、貴女が殺したのね?」
「チェスで、萌絵に勝ったのは初めてだよ」杜萌は言った。
「ええ、最高の試合だった」萌絵は頷いた。彼女はもう泣いていない。「貴女はクイーンもルークも、初めから捨てるつもりだったのね? それに気がついたときには、もう遅かったわ」
「いつもの萌絵なら気がついたはず。今日は、貴女、どうかしはってるんだ」
「いいえ、杜萌には、そんなことできるわけがない」萌絵は首をふった。「貴女はこの二ヶ月で変わったのよ。だから……」
「だから?」
「だから、あれは……、貴女がやったことなんだって、わかったの」
「あれって?」
「貴女が、あの男を殺したのよ」

続いて、萌絵が展開する推理を静かに聞き終えた杜萌は心中で述懐し、こう切り返す。

杜萌は目を瞑った。
本当に、どうしてなのだろう?
自分の動機は?
「でも、仮面の男に銃を突きつけられているうちに、私は決断したんだ。私がこの男を殺したら、あの人は、清水千亜希を殺してくれる。それで、あの人は……、もう私のものになる。それだけ。それだけで十分じゃない? ね? 私はクイーンもルークも捨てたんだよ! これは勝負なんだ……。勝つために、すべてが許される」

杜萌の本質である強い独占欲が発露する。何かを自分だけの領域に押し留めておきたい、他の人間が知らない物を見たい、所有したいといった欲動。おそらく、この性質は知的活動の源にもなっているはずだ。
注目すべくは、両者の「クイーンとルーク」というフレーズの使い方である。萌絵はチェスの盤面を指しているのに対して杜萌は自身が犯した殺人を指して、この言葉を発している。これは、もちろん、齟齬ではない。二人は異なる対象の背後にある同一のもの、杜萌の精神や知性、を指し示すために、この表現を使っている。
ここでひとつ疑問が立ち現れる、萌絵が「クイーンとルーク」と言う時に、明らかに表層的には盤上のピースのことを言っている。では、杜萌にとっての「クイーンとルーク」は一体、誰だろう?
答えは、クイーンは杜萌を、2つあるルークは誘拐事件の中で殺された清水千亜希と鳥井恵吾を表している。恵まれた環境に育ち、有名大学の大学院生として順風満帆な人生を送っていた杜萌は殺人を犯すことで自身の社会的なポジションをリスクに晒した。そして、盤上で差し出したひとつのルークは杜萌が殺した清水であり、もう一方のルークは赤松が殺した鳥井である。キングである赤松を守るために杜萌はクイーンとルークを捨てたのだ。
夏のレプリカに触れた読者にチェスのシーンが強く印象づけられるのは、単に優れた頭脳を持つ二人の女性が盤面を通じて知の戦いを見せてくれるからではなく、杜萌が取るチェスの戦略の変化の背景には、殺人を犯した彼女のポテンシャルの開放(これを成長と呼ぶべきなのかは分からない)が存在するからである。
超越性を持った真賀田四季の安定した知性や犀川創平というスタビライザと出会えた西之園萌絵とは打って変わって、簑沢杜萌はどこまでも危うい。
それゆえに、どこまでも魅力的だ。

杜萌が抱える問題について

夏のレプリカで描かれる簑沢杜萌は終始、精神的に不調である。
それは事件が起こっている時間内だけではなく、幼少期からそうであることが書かれている。
誤解を恐れずに端的に書くと、簑沢杜萌はメンヘラ女である。彼女の知性がそれを分かりづらくしている。あるいはそれを覆い隠すために知性が発達した。
彼女の心性の深いところにあるのは、強い独占欲と他社を受け入れることができない相反する性質である。
杜萌が犯した殺人も、その他の事件もここから派生しているといっていい。

夏のレプリカというタイトルの意味

タイトルである夏のレプリカは美しい響きを持っている。
英語題はReplaceable Summerが当てられている。
読み手によっては日本題よりも英題の方が内容を的確に表していると見えるかもしれないが、結局どちらも同じことを表現している。
レプリカはオリジナル製作者自身による複製品のことを指し、Replaceableは置換あるいは代替可能を意味する言葉である。
イメージとしてはこうだ。夏という特定の季節に同じような出来事(レプリカ)を起こす抽象的な鋳型がある。従って、これらは代替することができる(replaceable)。
抽象的な鋳型と書くと伝わりづらいが、要するにこれは前項で触れた簑沢杜萌の心性の問題である。
では、杜萌の心の問題によって引き起こされた、複製された事件とはなんだろうか、と考えなければならない。
本書には杜萌にまつわる出来事がメインの殺人事件を含めて3つ記されている。順番に見ていこう。

1. 愛犬ロッキィ

物語の半ばを超えた辺りで、杜萌と姉の沙奈恵が過去を述懐する場面がある。

「ねえ……」杜萌は少し歩きながら言った。「変なこと話すけど、小学生のとき、駒ヶ根の山荘で、お父様が犬を殺したの、姉さん、覚えてる?」

記憶を回想する姉に対して、杜萌は告白する。

「杜萌を噛んだのよ。お父様が怒っても、しかたがなかったわ」
「あれは違うの」杜萌は首をふった。「ロッキィは噛んだんじゃないの」
「でも……」沙奈恵は不思議そうな顔を向ける。
「噛んだんじゃないの」
「杜萌、貴女……」沙奈恵は椅子から立ち上がる。「犬が怖かったんでしょう?」
「違う」杜萌は大きく首をふった。「私、ロッキィが大好きだった」
「嘘……」
「噛んだんじゃない。遊んでいただけ」
「だって、杜萌が……、貴女が、自分でそう言ったのよ。ロッキィが突然噛みついたって」
「嘘をついたの。お父様に叱られたくなかったから」

この後、沙奈恵は杜萌を抱きしめて、優しく慰めることになるのだけれど、彼女の心の奥底にある病的なややこしさがよく現れているシーンである。
杜萌は小学生の時に滞在した別荘、季節については明記されていないけれど、駒ヶ根に滞在しているので夏休みだと類推して間違いないだろう、つまりは夏に、そこで飼われていたロッキィと遊んでいる時に、犬がじゃれて杜萌の手首を少し噛んだ。彼女は怪我をしたことで父親から怒られるのが怖くて、襲われたと嘘をついた。結果、犬は処分され、殺された。

2. 義兄素生との関係

誘拐殺人が起こる3年前の夏に、同じく駒ヶ根で杜萌と沙奈恵は目の見えない素生を連れて駒ヶ岳に出かけた。
そこで素生と沙奈恵がひとつのソフトクリームを仲睦まじくシェアして味わっている姿を杜萌は見る。そして激しく嫉妬をする。
素生を独り占めするために杜萌は行動に出る。

杜萌は、素生の耳もとで囁いた。
「姉さんと私と、どちらが好き?」
「どちらも、大好きだよ」素生は微笑む。まるで、杜萌の顔が見えるように、美しい瞳を彼女に向けながら。
杜萌も微笑んだ。どうして、自分が微笑むのか、理由がわからなかった。何故か、このまま、二人で崖から飛び降りても良い、と彼女は突然そう思ったのだ。
(死んだって、いい……)
杜萌は、素生に接吻した。

血がつながっていないとはいえ、兄に対して激情を持つことができるのだから、その独占欲の恐ろしさあが分かる。
そして、その夜に杜萌は更に素生の気を惹こうとする。外で素生に押し倒された杜萌は悲鳴をあげて、手近にあった石を兄の頭を打ち付ける。素生の頭からは血が流れる。悲鳴を聞いて駆けつけた家族によって事態は収拾することになるが、この事件以来、杜萌は素生と会っていない。そして、素生は自分の意思で部屋に閉じ込められている、ということになった。
ここでも杜萌は被害者の立場になっている。悪いのは兄の素生である、と。

3. 恋人の赤松浩徳との出会い

これについては夏のレプリカについての前記事に詳細を書いたので、簡単に触れるに留める。
大学生になった杜萌はあるコミュニティ(作品中で詳しくは説明されていないが公安からマークされている)の中で赤松浩徳と出会い、恋に落ちる。しかし、赤松には元恋人の清水千亜希が存在することを知り、殺意を覚えるほど嫉妬する。そして実際に清水を殺害するために今回の誘拐を計画、決行する。すべては赤松を自分だけの物にするためである。
ここまで来ると彼女の心はもはや理性では理解できない、ということが実感できる。
とにかく、簑沢杜萌という人格は病んでいるのである。
彼女は何かを独占したいという強い欲動を抱えている。しかし、その対象が本当に彼女のところへ向かってくると撥ねつけて、自分はそのせいで傷ついた被害者なのだ、と周囲に主張し始める。
これが夏のレプリカ(replaceable summer)を作り出す抽象的な鋳型の正体である。

杜萌と赤松のその後を夢想する

クイーンとルークが誰であるかを通して分かる杜萌の心性の変化、彼女が抱える問題、繰り返される夏の悲惨な出来事。
以上を踏まえて、杜萌と赤松というカップルの事件後について想像力を働かせてみたい。
シナリオは大きく2つある。

杜萌は赤松を裏切る

ロッキィ、素生の時と同じパターンである。
二人が警察に捕まったとしよう、そこで杜萌は今まで同じく自分を守るために、大学の妙なサークルで知り合った赤松浩徳という男のマインドコントロールによって自分は一時的に頭がおかしくなっており、心神喪失状態だったのです、と涙ながらに言うことで全ての罪を(心情的には)赤松にかぶせてしまう、というものだ。
でも、これではキング(赤松)を守るためにクイーン(杜萌自身)を捨てるシーンに象徴される杜萌の変化が効いてこない。

赤松のために杜萌は犠牲になる

赤松を独り占めするために殺人を犯した杜萌は社会的な地位を全て投げ捨てたと言っていい。ロッキィと素生の出来事から変わった杜萌はどこまでも彼の自身を犠牲にする道を選ぶ。事件の後も杜萌は赤松に添い遂げて、二度と萌絵たちが生きる社会には戻ってこない。というシナリオである。
個人的にはこちらの方が納得ができるし、客観的に見たときに杜萌が幸せだとは言えないけれども、救われたとは言えるかもしれない。

なぜ最後に素生は登場したのか

印象的なチェスとそれを引き継いだ萌絵の推理の流れの後に、ご都合主義ともいえる形で萌絵は素生と偶然に出くわすことになる。なぜ作者の森博嗣はわざわざここまで引っ張ったあげくに素生を登場させたのだろうか。
まずは思うのは、簑沢杜萌は素生を殺していない、兄はまだ生きている、ということを示すためである、というもの。萌絵の推理を効いた杜萌は罪を認めるとともに軽い錯乱状態になり記憶がない混ぜになっていく。その中で実は3年前の素生との出来事があった時に、杜萌は素生を石で殺したのだと萌絵に述懐する。恋人の元彼女に嫉妬して殺す、更に過去には兄まで殺していたのでは救いようがなさすぎるではないか。それを否定するために素生を登場させた。
この意味合いもあるとは思うけれど、萌絵の杜萌に対する友情、愛情の強さを描くためであると俺は思う。
終盤で赤松が杜萌の部屋にやってきて、萌絵が離れなければならないシーンから引用する。

「ええ……」杜萌はゆっくりと頷いた。「私たち、出て行く。お願い、もうしばらくだけ、見逃して。二人で、少しだけ時間が欲しいの。そのあとで、必ず出頭する」
「本当? 本当ね?」
「貴女に嘘をついたことはないよ」杜萌は微笑んだ。
「死んだりしない!?」萌絵は涙を流して叫んだ。その言葉を口にするだけで、胸が痛くなった。「そんなの許さないわよ。絶対絶対許さない! 死んだりしたら……、もう、杜萌の大事なもの全部、壊してやるから。めちゃくちゃにしてやるから!」
「大丈夫」杜萌は頷いた。
「また会うのよ、私たち」
「約束する」
「また、チェスをする」
「萌絵の提案を受け入れなかったことが、一度でもあった?」

他人の大事なものをめちゃくちゃに壊す、なんて言い回しを萌絵が他にしたことはない。それほど萌絵は親友に深い思い入れがあるのだ。
そして、この後、杜萌宅を去った萌絵は駅で女に連れられた素生と遭遇するのである。萌絵はコインロッカーに預けた自分の服を付き添いの女に譲る。代わりに素生の私物をほしいとお願いする。

「私ね、昔……、素生さんのファンだったの。だから、代わりに……、何でもいい、素生さんのものを一つだけもらえない?」
「何言ってんの? この人……」女は不機嫌そうな表情になった。
「西之園さん。これを」素生は、杖を腰に立てかけ、両手を首の後に回す。彼は金属製のネックレスを外して、萌絵に差し出した。
「ありがとう」萌絵は素生からそれを受け取り、そして、代わりにコインロッカーのキーを女に手渡した。
女はふんと鼻息をもらし、口もとを斜めにしたまま横を向いた。
「さようなら」萌絵は言う。
「さようなら」素生は微笑んだ。「あ、杜萌に会ったら……」
「え? 何です?」
「いえ、何でもない」素生は笑って首をふった。「彼女、元気かな?」
「ええ」
「東京にいるんだね?」
「いえ、今はアメリカです」萌絵は出鱈目を言った。「彼女、留学しているの」
「そうか……」
「このネックレス。杜萌に会ったら渡します」萌絵は素生の片手に触れた。

萌絵は私物を差し出して、素生のネックレスを手に入れる。
なんでこんな真似をする必要があるのだろう、と考える。
それは萌絵がもう一度、杜萌と会うために理由を作るためである。そして、杜萌に彼女が兄を殺してなんていないことを証明するためだ。
杜萌に恋に盲目である傍ら、常に姿の見えない兄を思い続けている。萌絵は夢想したのに違いない。将来、杜萌が罪を償った時に、電話やメールで連絡を再び取る。萌絵が素生と会った、彼は生きているのだ、と伝えてもそこには信憑性がないし、再会する動機にならない。でも、素生と遭遇し、しかも彼からの贈り物がある、と伝えたら話は全く違う。手渡すためには会わなければならない。萌絵はその場面まで計算したに違いない。彼女は絶対に親友と再び会いたいのだ。
ここで、萌絵は、杜萌はアメリカに居る、と素生に嘘をついている。もちろん、悪気はない。この言葉から既に萌絵の目には素生が映っていないことが伺える。勘の鋭い素生は、半ば杜萌が都内に居ることを確信して聞いているし、実際にここで萌絵が、はい、そうです、杜萌は東京に居ます、と答えても何の支障もない。だから、この台詞は素生ではなく、萌絵が自分自身に語りかけているのだ。今、杜萌はアメリカに留学しているから、自分は彼女と会うことができないのだ、と自信に言い聞かせているように見える。留学は杜萌の夢であった。エリートから殺人者に堕ちた親友には、もうその進路はない。だから、萌絵の中でだけはその夢を掴んでいてもらいたかった。
別れ際に、杜萌に会ったら渡します、と言う萌絵の気持ちがどこまで痛くて悲しい。
杜萌と会うことは二度とない。
萌絵は今でもネックレスを大切に持っているだろうか?