森博嗣の夏のレプリカを解説します。

前回の記事はあくまで導入であって、あらすじを通して明示されたメインの誘拐殺人事件と簑沢杜萌の兄である素生に関する物語で暗示された問いについては解説した。
こちらが本題であるエヴィデンスのない話を広げようという志向性によって書かれている。
なぜ俺がエヴィデンスを重視した話に興味がないのかについては、こちらの記事に記した通りの事情による。

答えが明かされない暗示された問題たち

クイーンとルークは誰を指すのか

杜萌はとても聡明である、ゆえに危うい部分を持ち合わせている。これは森博嗣の作品に登場する他のキャラクタにも共通する性質である。
物語の中では名前の類似点をはじめに杜萌はなにかと萌絵と対比される。
赤松と彼が所属するコミュニティに対する傾倒を見るに、杜萌の方がよりポテンシャルを持っているように映る。そして、その才能のせいで自滅する道を選んでしまう。
その二人が直接的に分かりやすい形で描かれる場面がある。
夏のレプリカの象徴的なシーンとして現れる西之園萌絵と簑沢杜萌の盤なしでのチェス対決である。
杜萌により潜在的な力があると書いたが、チェスにおいては萌絵の圧倒的なコンピューティングのために、彼女は負け通しである。
しかし、物語終盤で萌絵が杜萌宅を訪れて再びチェスで勝負をした際に杜萌が勝つ。これが杜萌の方がポテンシャルが高いという意味である。
萌絵は杜萌が取ったストラテジィから、事件の真相に辿り着く場面は感動的ですらある。
以下、その場面を引用しよう。

杜萌はそっと萌絵から離れ、立ち上がった。
彼女を見上げた萌絵の表情は、初めて本当に悲しそうに見えた。
「杜萌……、貴女が殺したのね?」
「チェスで、萌絵に勝ったのは初めてだよ」杜萌は言った。
「ええ、最高の試合だった」萌絵は頷いた。彼女はもう泣いていない。「貴女はクイーンもルークも、初めから捨てるつもりだったのね? それに気がついたときには、もう遅かったわ」
「いつもの萌絵なら気がついたはず。今日は、貴女、どうかしはってるんだ」
「いいえ、杜萌には、そんなことできるわけがない」萌絵は首をふった。「貴女はこの二ヶ月で変わったのよ。だから……」
「だから?」
「だから、あれは……、貴女がやったことなんだって、わかったの」
「あれって?」
「貴女が、あの男を殺したのよ」

続いて、萌絵が展開する推理を静かに聞き終えた杜萌は心中で述懐し、こう切り返す。

杜萌は目を瞑った。
本当に、どうしてなのだろう?
自分の動機は?
「でも、仮面の男に銃を突きつけられているうちに、私は決断したんだ。私がこの男を殺したら、あの人は、清水千亜希を殺してくれる。それで、あの人は……、もう私のものになる。それだけ。それだけで十分じゃない? ね? 私はクイーンもルークも捨てたんだよ! これは勝負なんだ……。勝つために、すべてが許される」

杜萌の本質である強い独占欲が発露する。何かを自分だけの領域に押し留めておきたい、他の人間が知らない物を見たい、所有したいといった欲動。おそらく、この性質は知的活動の源にもなっているはずだ。
注目すべくは、両者の「クイーンとルーク」というフレーズの使い方である。萌絵はチェスの盤面を指しているのに対して杜萌は自身が犯した殺人を指して、この言葉を発している。これは、もちろん、齟齬ではない。二人は異なる対象の背後にある同一のもの、杜萌の精神や知性、を指し示すために、この表現を使っている。
ここでひとつ疑問が立ち現れる、萌絵が「クイーンとルーク」と言う時に、明らかに表層的には盤上のピースのことを言っている。では、杜萌にとっての「クイーンとルーク」は一体、誰だろう?
答えは、クイーンは杜萌を、2つあるルークは誘拐事件の中で殺された清水千亜希と鳥井恵吾を表している。恵まれた環境に育ち、有名大学の大学院生として順風満帆な人生を送っていた杜萌は殺人を犯すことで自身の社会的なポジションをリスクに晒した。そして、盤上で差し出したひとつのルークは杜萌が殺した清水であり、もう一方のルークは赤松が殺した鳥井である。キングである赤松を守るために杜萌はクイーンとルークを捨てたのだ。
夏のレプリカに触れた読者にチェスのシーンが強く印象づけられるのは、単に優れた頭脳を持つ二人の女性が盤面を通じて知の戦いを見せてくれるからではなく、杜萌が取るチェスの戦略の変化の背景には、殺人を犯した彼女のポテンシャルの開放(これを成長と呼ぶべきなのかは分からない)が存在するからである。
超越性を持った真賀田四季の安定した知性や犀川創平というスタビライザと出会えた西之園萌絵とは打って変わって、簑沢杜萌はどこまでも危うい。
それゆえに、どこまでも魅力的だ。

杜萌が抱える問題について

夏のレプリカで描かれる簑沢杜萌は終始、精神的に不調である。
それは事件が起こっている時間内だけではなく、幼少期からそうであることが書かれている。
誤解を恐れずに端的に書くと、簑沢杜萌はメンヘラ女である。彼女の知性がそれを分かりづらくしている。あるいはそれを覆い隠すために知性が発達した。
彼女の心性の深いところにあるのは、強い独占欲と他社を受け入れることができない相反する性質である。
杜萌が犯した殺人も、その他の事件もここから派生しているといっていい。

夏のレプリカというタイトルの意味

タイトルである夏のレプリカは美しい響きを持っている。
英語題はReplaceable Summerが当てられている。
読み手によっては日本題よりも英題の方が内容を的確に表していると見えるかもしれないが、結局どちらも同じことを表現している。
レプリカはオリジナル製作者自身による複製品のことを指し、Replaceableは置換あるいは代替可能を意味する言葉である。
イメージとしてはこうだ。夏という特定の季節に同じような出来事(レプリカ)を起こす抽象的な鋳型がある。従って、これらは代替することができる(replaceable)。
抽象的な鋳型と書くと伝わりづらいが、要するにこれは前項で触れた簑沢杜萌の心性の問題である。
では、杜萌の心の問題によって引き起こされた、複製された事件とはなんだろうか、と考えなければならない。
本書には杜萌にまつわる出来事がメインの殺人事件を含めて3つ記されている。順番に見ていこう。

1. 愛犬ロッキィ

物語の半ばを超えた辺りで、杜萌と姉の沙奈恵が過去を述懐する場面がある。

「ねえ……」杜萌は少し歩きながら言った。「変なこと話すけど、小学生のとき、駒ヶ根の山荘で、お父様が犬を殺したの、姉さん、覚えてる?」

記憶を回想する姉に対して、杜萌は告白する。

「杜萌を噛んだのよ。お父様が怒っても、しかたがなかったわ」
「あれは違うの」杜萌は首をふった。「ロッキィは噛んだんじゃないの」
「でも……」沙奈恵は不思議そうな顔を向ける。
「噛んだんじゃないの」
「杜萌、貴女……」沙奈恵は椅子から立ち上がる。「犬が怖かったんでしょう?」
「違う」杜萌は大きく首をふった。「私、ロッキィが大好きだった」
「嘘……」
「噛んだんじゃない。遊んでいただけ」
「だって、杜萌が……、貴女が、自分でそう言ったのよ。ロッキィが突然噛みついたって」
「嘘をついたの。お父様に叱られたくなかったから」

この後、沙奈恵は杜萌を抱きしめて、優しく慰めることになるのだけれど、彼女の心の奥底にある病的なややこしさがよく現れているシーンである。
杜萌は小学生の時に滞在した別荘、季節については明記されていないけれど、駒ヶ根に滞在しているので夏休みだと類推して間違いないだろう、つまりは夏に、そこで飼われていたロッキィと遊んでいる時に、犬がじゃれて杜萌の手首を少し噛んだ。彼女は怪我をしたことで父親から怒られるのが怖くて、襲われたと嘘をついた。結果、犬は処分され、殺された。

2. 義兄素生との関係

誘拐殺人が起こる3年前の夏に、同じく駒ヶ根で杜萌と沙奈恵は目の見えない素生を連れて駒ヶ岳に出かけた。
そこで素生と沙奈恵がひとつのソフトクリームを仲睦まじくシェアして味わっている姿を杜萌は見る。そして激しく嫉妬をする。
素生を独り占めするために杜萌は行動に出る。

杜萌は、素生の耳もとで囁いた。
「姉さんと私と、どちらが好き?」
「どちらも、大好きだよ」素生は微笑む。まるで、杜萌の顔が見えるように、美しい瞳を彼女に向けながら。
杜萌も微笑んだ。どうして、自分が微笑むのか、理由がわからなかった。何故か、このまま、二人で崖から飛び降りても良い、と彼女は突然そう思ったのだ。
(死んだって、いい……)
杜萌は、素生に接吻した。

血がつながっていないとはいえ、兄に対して激情を持つことができるのだから、その独占欲の恐ろしさあが分かる。
そして、その夜に杜萌は更に素生の気を惹こうとする。外で素生に押し倒された杜萌は悲鳴をあげて、手近にあった石を兄の頭を打ち付ける。素生の頭からは血が流れる。悲鳴を聞いて駆けつけた家族によって事態は収拾することになるが、この事件以来、杜萌は素生と会っていない。そして、素生は自分の意思で部屋に閉じ込められている、ということになった。
ここでも杜萌は被害者の立場になっている。悪いのは兄の素生である、と。

3. 恋人の赤松浩徳との出会い

これについては夏のレプリカについての前記事に詳細を書いたので、簡単に触れるに留める。
大学生になった杜萌はあるコミュニティ(作品中で詳しくは説明されていないが公安からマークされている)の中で赤松浩徳と出会い、恋に落ちる。しかし、赤松には元恋人の清水千亜希が存在することを知り、殺意を覚えるほど嫉妬する。そして実際に清水を殺害するために今回の誘拐を計画、決行する。すべては赤松を自分だけの物にするためである。
ここまで来ると彼女の心はもはや理性では理解できない、ということが実感できる。
とにかく、簑沢杜萌という人格は病んでいるのである。
彼女は何かを独占したいという強い欲動を抱えている。しかし、その対象が本当に彼女のところへ向かってくると撥ねつけて、自分はそのせいで傷ついた被害者なのだ、と周囲に主張し始める。
これが夏のレプリカ(replaceable summer)を作り出す抽象的な鋳型の正体である。

杜萌と赤松のその後を夢想する

クイーンとルークが誰であるかを通して分かる杜萌の心性の変化、彼女が抱える問題、繰り返される夏の悲惨な出来事。
以上を踏まえて、杜萌と赤松というカップルの事件後について想像力を働かせてみたい。
シナリオは大きく2つある。

杜萌は赤松を裏切る

ロッキィ、素生の時と同じパターンである。
二人が警察に捕まったとしよう、そこで杜萌は今まで同じく自分を守るために、大学の妙なサークルで知り合った赤松浩徳という男のマインドコントロールによって自分は一時的に頭がおかしくなっており、心神喪失状態だったのです、と涙ながらに言うことで全ての罪を(心情的には)赤松にかぶせてしまう、というものだ。
でも、これではキング(赤松)を守るためにクイーン(杜萌自身)を捨てるシーンに象徴される杜萌の変化が効いてこない。

赤松のために杜萌は犠牲になる

赤松を独り占めするために殺人を犯した杜萌は社会的な地位を全て投げ捨てたと言っていい。ロッキィと素生の出来事から変わった杜萌はどこまでも彼の自身を犠牲にする道を選ぶ。事件の後も杜萌は赤松に添い遂げて、二度と萌絵たちが生きる社会には戻ってこない。というシナリオである。
個人的にはこちらの方が納得ができるし、客観的に見たときに杜萌が幸せだとは言えないけれども、救われたとは言えるかもしれない。

なぜ最後に素生は登場したのか

印象的なチェスとそれを引き継いだ萌絵の推理の流れの後に、ご都合主義ともいえる形で萌絵は素生と偶然に出くわすことになる。なぜ作者の森博嗣はわざわざここまで引っ張ったあげくに素生を登場させたのだろうか。
まずは思うのは、簑沢杜萌は素生を殺していない、兄はまだ生きている、ということを示すためである、というもの。萌絵の推理を聞いた杜萌は罪を認めるとともに軽い錯乱状態になり記憶がない混ぜになっていく。その中で実は3年前の素生との出来事があった時に、杜萌は素生を石で殺したのだと萌絵に述懐する。恋人の元彼女に嫉妬して殺す、更に過去には兄まで殺していたのでは救いようがなさすぎるではないか。それを否定するために素生を登場させた。
この意味合いもあるとは思うけれど、萌絵の杜萌に対する友情、愛情の強さを描くためであると俺は思う。
終盤で赤松が杜萌の部屋にやってきて、萌絵が離れなければならないシーンから引用する。

「ええ……」杜萌はゆっくりと頷いた。「私たち、出て行く。お願い、もうしばらくだけ、見逃して。二人で、少しだけ時間が欲しいの。そのあとで、必ず出頭する」
「本当? 本当ね?」
「貴女に嘘をついたことはないよ」杜萌は微笑んだ。
「死んだりしない!?」萌絵は涙を流して叫んだ。その言葉を口にするだけで、胸が痛くなった。「そんなの許さないわよ。絶対絶対許さない! 死んだりしたら……、もう、杜萌の大事なもの全部、壊してやるから。めちゃくちゃにしてやるから!」
「大丈夫」杜萌は頷いた。
「また会うのよ、私たち」
「約束する」
「また、チェスをする」
「萌絵の提案を受け入れなかったことが、一度でもあった?」

他人の大事なものをめちゃくちゃに壊す、なんて言い回しを萌絵が他にしたことはない。それほど萌絵は親友に深い思い入れがあるのだ。
そして、この後、杜萌宅を去った萌絵は駅で女に連れられた素生と遭遇するのである。萌絵はコインロッカーに預けた自分の服を付き添いの女に譲る。代わりに素生の私物をほしいとお願いする。

「私ね、昔……、素生さんのファンだったの。だから、代わりに……、何でもいい、素生さんのものを一つだけもらえない?」
「何言ってんの? この人……」女は不機嫌そうな表情になった。
「西之園さん。これを」素生は、杖を腰に立てかけ、両手を首の後に回す。彼は金属製のネックレスを外して、萌絵に差し出した。
「ありがとう」萌絵は素生からそれを受け取り、そして、代わりにコインロッカーのキーを女に手渡した。
女はふんと鼻息をもらし、口もとを斜めにしたまま横を向いた。
「さようなら」萌絵は言う。
「さようなら」素生は微笑んだ。「あ、杜萌に会ったら……」
「え? 何です?」
「いえ、何でもない」素生は笑って首をふった。「彼女、元気かな?」
「ええ」
「東京にいるんだね?」
「いえ、今はアメリカです」萌絵は出鱈目を言った。「彼女、留学しているの」
「そうか……」
「このネックレス。杜萌に会ったら渡します」萌絵は素生の片手に触れた。

萌絵は私物を差し出して、素生のネックレスを手に入れる。
なんでこんな真似をする必要があるのだろう、と考える。
それは萌絵がもう一度、杜萌と会うために理由を作るためである。そして、杜萌に彼女が兄を殺してなんていないことを証明するためだ。
杜萌は恋に盲目である傍ら、常に姿の見えない兄を思い続けている。萌絵は夢想したのに違いない。将来、杜萌が罪を償った時に、電話やメールで連絡を再び取る。萌絵が素生と会った、彼は生きているのだ、と伝えてもそこには信憑性がないし、再会する動機にならない。でも、素生と遭遇し、しかも彼からの贈り物がある、と伝えたら話は全く違う。手渡すためには会わなければならない。萌絵はその場面まで計算したに違いない。彼女は絶対に親友と再び会いたいのだ。
ここで、萌絵は、杜萌はアメリカに居る、と素生に嘘をついている。もちろん、悪気はない。この言葉から既に萌絵の目には素生が映っていないことが伺える。勘の鋭い素生は、半ば杜萌が都内に居ることを確信して聞いているし、実際にここで萌絵が、はい、そうです、杜萌は東京に居ます、と答えても何の支障もない。だから、この台詞は素生ではなく、萌絵が自分自身に語りかけているのだ。今、杜萌はアメリカに留学しているから、自分は彼女と会うことができないのだ、と自信に言い聞かせているように見える。留学は杜萌の夢であった。エリートから殺人者に堕ちた親友には、もうその進路はない。だから、せめて萌絵の中でだけはその夢を掴んでいてもらいたかった。
簑沢杜萌は明らかに西之園萌絵と同型の人物として描かれている、ただ杜萌の場合は精神の不安定さを受け止めてくれる相手の選択を誤った。少なくとも傍からはそう見える。それが二人の分かれ道になってしまった。
別れ際に、杜萌に会ったら渡します、と言う萌絵の気持ちがどこまでも痛くて切ない。
杜萌と会うことは二度とない。
萌絵は今でも素生から受け取ったネックレスを大切に持っているだろうか。

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