森博嗣の「φは壊れたね」を読んだので解説します

ウィトゲンシュタインとφは壊れたね

本書「φは壊れたね」の冒頭と各章頭の引用文はLudwig Wittgenstein(ルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン)のTRACTATUS LOGICO-PHILOSOPHICUS(論理哲学論考)からである。これが物語とその構造を表していると捉えると綺麗に理解することができる。
とても重要なことに思えるけれど、2004年9月に本書が刊行されてから、そのつながりを指摘する人がいないので簡単に考察してまとめる。
ネタバレ有りなので、未読の人は注意を。
始めに書いしまうならば、ウィトゲンシュタインになぞらえた本作品のテーマは
人は言葉によって知覚することができる。
人は自分の限界を知覚することができない。

である。

以下、本書の各所引用文を紹介する。

主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。
君は、これは眼と視野の関係と同じ事情だと言う。だが、君は現実に眼を見ることはない。
そして、視野におけるいかなるものからも、それが眼によって見られていることは推論されない。

プロローグ

記号はシンボルの知覚可能な側面である。

1章 密室の中に浮遊する死体の状況について

論理的必然性のみが存在するように、ただ論理的不可能性のみが存在する。

2章 しだいに確固となる密室の境界条件について

なるほど物理法則に反した事態を空間的に描写することはできよう。
しかし、幾何法則に反した事態を空間的に描写することはできない。

3章 記録された映像とφの謎について

「ある事態が思考可能である」とは、われわれがその事態の像を作りうるということにほかならない。

4章 予感と現実の摩擦あるいは譲歩について

死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない。
永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、現在に生きる者は永遠に生きるのである。
視野のうちに視野の限界は現れないように、生もまた、終わりをもたない。

5章 通じるために開けた穴のリスクについて

太陽は明日も昇るだろうというのは一つの仮説である。すなわち、われわれは太陽が昇るかどうか、知っているわけではない。

エピローグ

語りえぬものについては、沈黙せねばならない。

登場人物

  • 戸川 優(あさかわ ゆう)N芸大4年生
  • 白金 瑞穂(しろがね みずほ)N芸大4年生
  • 町田 弘司(まちだ ひろし)N芸大4年生
  • 可部谷 恵美(かべや めぐみ)C大学2年生
  • 海月 及介(くらげ きゅうすけ)C大学2年生
  • 山吹 早月(やまぶき さつき)C大学大学院M1
  • 西之園 萌絵(にしのその もえ)N大学大学院D2
  • 国枝 桃子(くにえだ ももこ)C大学助教授
  • 犀川 創平(さいかわ そうへい)N大学助教授

あらすじ

まずは文庫版の紹介文から引用。

その死体は、Yの字に吊られていた。背中に作りものの翼をつけて。部屋は密室状態。さらに死体発見の一部始終が、ビデオで録画されていた。タイトルは「Φ(ファイ)は壊れたね」。これは挑戦なのか?N大のスーパ大学院生、西之園萌絵が、山吹ら学生たちと、事件解明に挑む。Gシリーズ、待望の文庫版スタート!

戸川優と白金瑞穂が町田弘司のマンションを訪れたところ、町田弘司が部屋に宙吊り状態で死んでいるところが見つかる。死因はナイフで刺されたため。密室である上に、部屋の様子はビデオで撮影されていたので、更に事件は解決困難になる、というもの。

物語構造

「φは壊れたね」という小説中の芸術作品は色覚をテーマにしていたと思われる。
様々な色が部屋に散らばっており、戸川優は終始、赤色(町田弘司の血を含む)に魅了されている。
実在しない物の存在感を強調させるためという意図に加えて、作品制作の段階で色を意識しすぎたあまり、「ナイフ」だけで良いところを説明的に「銀色のナイフ」と台本建てしてしまったと想像できる。
実際にこの作品構成はほとんどのオーディエンスに対して上手く機能している。
白金瑞穂が「銀色のナイフ」という言葉を発したことで、見ている者の脳内において本当にそこにナイフが存在する、という認知を引き出すことに成功している。
ほとんどのオーディエンスと書いたのは、ご存知の通り、犀川創平と本シリーズの探偵役である海月及介にとっては、白金瑞穂の「銀色のナイフ」という言葉はあくまでも、一人の女が「銀色のナイフ」と言っている状況が撮影されたビデオがある(回りくどい表現になるけど仕方がない)、という認知を与えたにすぎず、言葉そのものが純粋に伝搬しているわけではない、という点が他の観衆とは違っていたことになる。
結果として、通常、銀色であるナイフを指してわざわざ「銀色のナイフ」と言った違和感が浮き彫りになり、連鎖的に白金瑞穂、戸川優が実行犯であり、密室の状況を考えると被害者(だと思われていた)町田弘司自身も犯行に協力していた、という構造が浮かび上がることになる。

海月及介(とおそらく犀川創平)の直感的推理

  1. ビデオの中で白金瑞穂が「銀色のナイフ」という言葉を使う。
  2. ナイフは普通、銀色であるのでわざわざ「銀色のナイフ」と言うことはない。
  3. では、なぜ白金瑞穂はその言葉を使ったのか?
  4. なぜなら、本当はそこにはナイフが存在しなかったから。
  5. しかし、実際に町田弘司の死体にはナイフが刺さっていた。
  6. つまり、戸川優(実行犯)は撮影中にナイフで殺した。

キャラクタ小説としてのG

森博嗣のデビュー作であるS&Mシリーズから言われている森作品の特徴としてキャラクタ小説、もっと露骨にキャラ萌えの要素がある。キャラクタ小説であることを持って森作品を馬鹿にするコメントもあるが、それも含めて森博嗣の小説なのだから、読者はそうった要素込みで楽しめば良いだけである。

S&Mシリーズであればメインの登場人物であれば、
犀川創平は大学教員で論理的思考に優れていて寡黙、極めて頭脳優秀。探偵役。
西之園萌絵はお嬢様で、世間知らず、直感と計算能力に優れている。精神的な闇を抱えている。犀川創平が大好き。
真賀田四季は全てを超越した天才。多重人格者。自身の両親と娘を殺害した殺人犯。

Vシリーズであれば、
瀬在丸紅子は旧家のお嬢様、世間知らず(この設定は西之園萌絵と似ている)。多重人格的。森作品の中で真賀田四季に次ぐ頭脳を持つ人間として描かれる。
小鳥遊練無は医学部の学生。普段から女性用の服を着ている女装者で語尾になりねを付ける、という萌え狙い設定。
香具山紫子は高身長の女学生で、小鳥遊練無とは対照的。エセ関西弁。
保呂草潤平は理知的な紳士だけど、実は美術品狙いの泥棒。

本作「φは壊れたね」はGシリーズの1作目なので、まだ登場キャラクタ達の属性は明かされていない。
冒頭から、山吹早月と海月及介のボーイズラブ的な設定を可部谷恵美が嗅ぎつけて一人で盛り上がったり、海月及介の犀川創平以上の無口っぷりと博識ぶり、犀川創平と同じ思考から事件の真相に気付いたことから、本Gシリーズの探偵役であることが明らかになるくらいである。
可部谷恵美と山吹早月からの言及によって存在が分かるだけで海月自身が喋りはじめるのは物語が解決に向かって動き始める物語後半からであることを考えると、海月及介の寡黙キャラ設定は徹底していると言える。
彼が突如喋り始めて、事件の推理を語り始めるシーンは一種の疾走感すら感じられる展開で初読者にとっては「φは壊れたね」中で最も面白いと感じられる場面に違いない。