東浩紀による『一般意志2.0』とその後 #4の解説イベントのまとめメモ

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東浩紀 ゲンロンカフェ 『一般意志2.0』とその後 #1の要約メモ
東浩紀 ゲンロンカフェ 『一般意志2.0』とその後 #2の要約メモ
東浩紀 ゲンロンカフェ 『一般意志2.0』とその後 #3の要約メモ
東浩紀 ゲンロンカフェ 『一般意志2.0』とその後 #5の要約メモ

東浩紀、津田大介がチェルノブイリを訪れた時の話

ガイガーカウンターを使って、車で走ったルートをGPSと合わせて、放射線の濃度を測定した地図を会場に披露する。
チェルノブイリ事故は第4号炉の操作ミスが原因。ある問題が起きた時にそれに気づかずにレバー操作をミスしたことから発起。2号炉と4号炉のコントロール室は同じ作りになっている。東たちはその2号炉を訪れて撮影した。
アレクサンドルシロタは日系ではない。
ストーカーというFPSのゲームがある。ウクライナのゲームメーカーが作ったチェルノブイリが舞台のゲーム。ゲームが大ヒットしたことで、聖地巡礼の観光客が増えた。現地の人に意見を尋ねると、好意的に受け止めている人が多い。福島では考えられない。

一般意志2.0がなぜルソーによって書かなければならないのか?

東は言葉を信じていない。なぜならデリダを研究していたから。
脱構築とは:簡単に言うと言葉はなんとでも解釈可能、ということ。
ジャック・デリダに前期、後期がある。1980年代のでリリアンがいうところの倫理的転回以降は、言葉の向こう側に確かな真実があるかのような言い方をする。
デリダの法の力、という著作がある。
デリダ「法は脱構築可能だが、正義は脱構築できない」→学生時代の東は感化される。
脱構築可能なものi.e. 人々の歴史証言
東の解釈では、
法:計算可能であるから脱構築可能
正義:計算不可能なので脱構築不可能

ジョン・サール「デリダは間違っている。言語固有論はもっと厳密に読める」
ジョン・サールへの反論がデリダの「limited Inc」
法政大学出版のウニベルシタス叢書から「ABC有限会社」が出ている
Limited Inc = 限定責任匿名会社(略称サールで反論相手の名前と一致)
Limited Inkと響きが同じなので、反論の終わりは「インクが切れたから終わりする」となっている意味不明な書物。
Constative(マジ) ⇔ Performative (ネタ)
デリダのエクリチュールは物質性の話。書くという行為には紙とインクが必要になる。コミュニケーションにはリソースが必要になる。サールが述べるようなコミュニケーション形態には無限のコミュニケーションリソースが必要になる。
別の視点では、物を調べる、という行為には人間の体力の限界による終わりが来る。これがデリダの哲学の核にある。簡単に言うと人は疲れる。
テキストに外部はない(Thre’s no outside of text.)。意味やテキストは無限の解釈可能性に開かれている、なぜなら言葉はいくらでも解釈することができる。その解釈を収束させるのが物質性から来る有限性(=インクと紙がない)。解釈の余地のないものとして物質、時間がある。後期デリダが正義は脱構築できない、というのは東的にはデリダ的には捉えられない。

これは日中の歴史解釈にも関係する

東浩紀は強制連行と南京虐殺がある程度あったと考える。これらに関する証言は少ない。数十年経ってから出てきた証言はあるが頼りにならない。結果として解釈合戦になる。
ヨーロッパにも歴史修正主義者がいる。ガス室はなかったというグループはいるが、それが定説になることはない。なぜならアウシュヴィッツにいけばガス室は実際に存在するから。物質的存在が解釈合戦を止める。

ネット選挙解禁の話題

昔であれば地域が自民党を支持するから自分も自民党に投票する、ということがあった。しかし、どんどん自由化が進み主体性に基づいた投票行動を取れるようになった。
同性愛者であればをそれを支持する政党、政治家に対して投票する。政治家に多少の瑕疵があっても、同性愛者を支持してくれることを考慮してそれを支持しつづける。そして同性愛者であることは選択したわけではない。自分を支える各要素のネットワークによって規定された要素に基いて政治的な判断をする。つまり、環境が選択を規定している。

選択=主体性の問題である

論理は構造上、無限に解釈を重ねることが可能になっている。だから具体的な物質から入っていく必要がある。リベラルな若者の運動として傷つけ合わないネットワークとしてのシェアハウスがあるが東は信じていない。人が人を助けるのはコストを支払うこと。
リベラリズムでは他人を主体性を持つ存在として捉えていた。これがカント以来の哲学の伝統。東はこれが間違いだと考える。なぜならカント主義を貫くと他者を理解できないという壁にぶつかるから。
i.e. 異性愛者と同性愛は分かり合えないが、分かり合えないまま、相手の欲望を認めたまま共生する。
他者をプログラムがプリインストールされたロボットだと捉える。他人をモノ扱いする。
i.e.同性愛者は同性を愛するという欲望がインストールされた存在だと捉える。
他者ひとりひとりに対して感情移入をして内面と行動をつなぐ行動原理を説明しようとすると、それに割くコミュニケーションコストが多すぎてパンクする。だから、他者はそういうふうに動くものなのだ、とだけ捉える。これがリベラリズムの基礎にあると東は考える。
フロイトの精神分析はこの文脈において有効。無意識の発見とは、人間の主体性を決定する条件=プリインストールされたプログラム。欲望を抱えた存在として捉える。
自由意志があって、選択をした、その結果として主体性が生じる、と考えるのではなくて。自分の環境からある環境においてあるものを選ばざるを得なかった時に、主体性が発生する。
「告白」において、ルソーは文学史においてはじめて性欲を取り扱っている。
インターネットに対する戸惑いの源泉は、社会の欲望、下半身を常に見せられている状態だから(在日死ね、生活保護死ね)。
人間が考えた結果なにかを主体的に選択したと思っていても、実際にはそれは根本、無意識にある欲望を正当化するための行為にすぎない。
共感のリベラリズムは死に体。放置のリベラリズムが台頭する。

質疑応答

Q:韓国が世界中にNYCなどに慰安婦像を作っていくとデリダのいう物質性によって、他の国は従軍慰安婦による強制連行があったと思ってしまうのではないか。
東:そうなると思う。自分としては韓国政府がやっていることは駄目で、日本政府の方が正しいと思う。本当に両国が真実を追求しだしたら戦争になる。この問題は共通の歴史認識を持てないということに関して同意する他無い。

Q:色んな人と触れ合って、しかしあまり他者に対してツッコミを入れるな、とうのが基本でしょうか?
東:ラカンでいうと鏡像段階。吉本隆明でいうと追幻想。お前のためを思う俺のための思う俺。。。という無限自己言及へ入るのは不毛だから、それをどう断ち切るかが重要。ラカン風にいうと想像界を安定させる表層界がやってきて、社会秩序が安定する。バラバラな鏡像関係がやってきてコミュニケーションを取れなくなっている。社会規範があって、それに則ると色んな人間とコミュニケーションを取ることができる、となっていなくて、個別の人間に対してそれぞれコミュニケーション方法を考えて対応する、ということになっているのがポストモダンの状態。鏡像段階に入る前にそれをどう断ち切るのかを考えることが重要。一人に対するコミュニケーションコストをどう低くするか、という問題。
i.e. 昔であれば結婚して子供がいる女性は子無しの人に何も言わなかった。なぜなら子ありが絶対に正しいから。今では子無しもひとつの選択肢であり、絶対に正しいものという規範がないためにお互いをお互いを意識するようになった。これによって様々な問題が生じる。

ローティがリベラリズムにおいて重要であるというcompassionは物質的に直接触れることによって生じるもの。
i.e. 手が触れる。道端で血まみれの人。

東浩紀のゲンロンカフェ『一般意志2.0』とその後 #5の要約メモ

東浩紀 ゲンロンカフェ 『一般意志2.0』とその後 #5の要約メモ

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