東浩紀による『一般意志2.0』とその後 #3の解説イベントのまとめメモ

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東浩紀 ゲンロンカフェ 『一般意志2.0』とその後 #1の要約メモ
東浩紀 ゲンロンカフェ 『一般意志2.0』とその後 #2の要約メモ
東浩紀 ゲンロンカフェ 『一般意志2.0』とその後 #4の要約メモ
東浩紀 ゲンロンカフェ 『一般意志2.0』とその後 #5の要約メモ

おさらい

集合知 ⇔ 熟議 
偶然(事故) ⇔ 必然(死)
動物 ⇔ 人間
経済的・功利的存在 ⇔ 政治的・倫理的存在
oikos ⇔ polis (= zoe ⇔ bios ); bios = personal life, zoe = physical life
無意識 ⇔ 意識

近代は人は個人で生きると極端に舵取りをした時代。

人間は「確定記述」で生きるか、「固有名詞」で生きるか? 柄谷行人
東は元々すごく柄谷から影響を受けた。今は柄谷行人は岩波知識人になってしまった。
i.e. ; 夏目漱石はいくつも属性を持っている;作家、猫の著者、本名夏目金之助、東京に住んでいた。属性が確定記述で名前が固有名。
20世紀初期に論理実証主義がでてきた。全ての論理を数学的に扱おうとした。この集団は確定記述を定めると固有名が指定できると考えた。固有名=属性A∧属性B∧。。。。という連なりの省略記法と考えた。バートランド・ラッセルなど。しかし、これは反論可能。なぜなら実際の自然言語の働きもっと自由度が高いから。
「夏目漱石は猫を書いていない」→実際の言語の働きときしてあり得る
「猫の作者は猫を書いていない」→論理的に無意味、矛盾
言語はおそろしく自由、夏目漱石は女性だったとも言える。
聖徳太子が存在しなかった問題がある。天武天皇の時代に複数の人間を混ぜて作った説がある。「聖徳太子はいなかった」しかし固有名は存在する。こうなってくると固有名とは何か、という問いが出て来る。固有名は属性の連なりと書き表せるという前提だが、実際には固有名を使うことで仮定されていた属性を否定することが可能になる。これは人は属性に還元可能なのかできなにのか、という問いにもなる。別の表現だと人は群れの一部なのか、あるいは規定されない存在なのか、とテーマに繋がる。

補助線1:

檜垣立哉「子供の哲学」
1964年生まれの、フランス思想研究者

デカルト、ハイデガー批判
本の出発点は、近代哲学は生物学的な視点を排除している。
「デカルトの扱う我は親からもったものではない」。「現在ここにいて考えている我とその体を与えた両親は無関係である」「ここで考えている我のみが問題なのだ」と生物学的な視点を排除している。
ユクスキュルという生物学者は肝世界論、ウンヴェルトという議論を展開している。ハイデガーは主体は世界に囲まれているという概念を取り入れた哲学者。世界内存在。しかし、ハイデガーは、生物学的な議論を取り入れていない。存在する体と生物学的な両親とのつながりは取り扱わない。
したがって西洋哲学に対してジェンダー論や男性中心主義だという批判は正しい。

西田幾多郎、レヴィナスの肯定的読み
レヴィナスには「顔」という概念がある。顔があると暴力を使えないというのを難しく展開している。Face to faceによって起動する感情が人間にある。
顔のあとに「愛撫」「女性性」という概念を導入する。これを檜垣は肯定的に読む。自分であるという主体の底にある心理、生殖の動きを読み取る。

子供(他者)を作る存在としての主体
檜垣の結論は「すべての存在を子供として肯定すべき」「私の子供、という所有は存在しない」
子供論だったはずが生命論に入れ替わる(変な一般化が働く)。
近代哲学が確立した主体という概念は強烈な個の存在を論じる。一方で個人を乗り越える、個に内在する生物学的な連なりなどを論じる哲学もたくさんある(ベルクソンのエランピータル、ホワイトヘッド、メルロ=ポンティ、日本では廣松渉の共同主観性)。環主体的身体に焦点をあてた生命哲学に檜垣はいっている。しかし、例えば「私の子供」「あなたの子供」はそれぞれ違う。固有名を出現させる、という経験に人は驚く、決して生命の連なりに自分も位置していることに驚きがあるわけではない。

補助線2:

鈴木健「なめらかな社会とその敵」
1975年生まれ
2001年の朝日新聞の柄谷行人と坂本龍一と鈴木健が鼎談をした。NAM(New association movement)。新しい通貨を作るというプロジェクト。
人間は群れの存在。インターネットがなかったからそれを実感できなかった。これからどんどんいける、という話。
人間の胃にも投票権を与える、という話にもなる。後半から電波になるが、出版前に直しきれなかった点に本領が発揮されている。
ised、国際大学グローバルコミュニケーションセンターでの議事録。司会は東浩紀。
なめらかな社会ではすべてがなめらかでなだらかになっている。
i.e. 国籍についても日本人であるかないかではなくて、どれくらい日本人であるかという発想になる。

PICSY、分人民主主義
http://www.picsy.org/
i.e. イチローがいる。彼は昔行きつけのラーメン屋があった。イチローが大成功した功績にはラーメン屋にもあるから、500円で食ったラーメンが3000円になるような通貨を構築することは可能か、という話。これは全ての商取引が株券になる、という話。Googleのページランキングと同じ。あれも相互リンクの評価を行っている。
政治の投票権についても同様の思想で扱う。1人一票ではなくて、票数を好きなだけ分割することが可能。更に他人に委託することもできる。だから信用があり、委託されてまくっている人は1人でたくさんの票数を持つことができる。
このシステムの概念根拠は以下の生物学的な3つ

膜、核、網
核とは自由度が少ないが影響力がとても大きいものを指す。
i.e. 会社の社長を考える。社長はやることは少ないが、動いた時の影響力はとても大きい。

そして社会の実態は核をもった膜がつらなった「網」である。
膜ができるのは、社会に投資する側とされる側がいるからである。この投資を適切な形に落とすことで膜が網に変わる。

すべての個体を群体に還元する思想

鈴木健は「膜」を否定、所有を否定。
あらゆる物があらゆる人からの投資によって成立していると見なす。

しかし膜こそが超越性を生み出すのでは
カール・シュミットの「政治」。ブリリアントな名著で薄い。
カール・シュミットはナチを支援していた悪評の法学者。
政治というのは友と敵を分けることである、という主張。
この時、カール・シュミットと対峙していたのは利害調整の経済的政治、自由主義的思想。譲歩できる部分は譲り、取るべきところは取るという是々非々の政治。しかし、カール・シュミットは政治を政治、理学、哲学、道徳と切り離して捉える。自分の利益や美学、正義を根拠にして動くものは政治ではない。カール・シュミットの唱える政治とは自分の存在論、存在を守ること、自分の存在を脅かす存在を存在論的に殲滅することを指す。のちにユダヤ人虐殺につながる。人間には彼岸と此岸どちらかのみが生きなければいけないことがある。これこそが政治である、とカール・シュミットは言う。もちろん、反論もある。
論理的説得力の正体は自己同一性や超越性である。もし政治がないと国家というものは存在しないとカール・シュミットは述べる。ドイツという国家概念は曖昧だがそれを国にするというのは膜を作ること。これは友と敵を分かること。今で言うと彼はグローバリズムに抵抗する思想を提供している。技術、政治的仕組みが進歩していくと地球上がひとつにまとまり、国家という概念がなくなる、というのを想定したいたような議論。もし人間が人間でありうるのなら政治は絶対に存在する。もし国家がなくなり、個人が個人としてつながり経済的合理性のみがあるというのは現実的にあり得るのか?無理だとカール・シュミットは主張する。
超越性のi.e. 法人格、国家などの集団としての人格。これらは仮想的な人格だと現実的に機能しているフィクションである。

今回まとめ

確定記述 ⇔ 固有名
群れ ⇔ 個人
動物 ⇔ 人間
経済 ⇔ 政治
市場 ⇔ 国家

固有名というラベリングはいつでも変更できるようにしておき、確定記述の束を操作するのが鈴木健の思想。

東浩紀のゲンロンカフェ『一般意志2.0』とその後 #4の要約メモ

東浩紀 ゲンロンカフェ 『一般意志2.0』とその後 #4の要約メモ

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