苫米地英人 明治維新という名の洗脳の読書メモ

上野戦争(1868年7月)、戊辰戦争(1868~1869年)は日本史上最大の内戦だった。

1863年6月に萩藩は外国船に砲撃をする。相手はアメリカ、フランス、オランダのみでイギリスはいない。
そして2日後に伊藤博文などをイギリスに留学させる。

長州藩が実在したことは一度もない。正しくは、公式文書では萩藩、普段は長藩。
律令制区分では薩摩は薩州、広島は芸州、長門と周防のあたりは長州と呼ばれていた。
当時、萩藩の人間は自分たちのことを長州人、長藩と呼ぶことはあったが、長州藩とは呼ばなかった。

フランス駐日公使ロッシュもイギリス駐日公使パークス、どちらも幕府側であった。
攘夷の立場を取る薩摩側に肩入れをした上で日本に内政干渉するという手間のかかることをする理由はない。
1866年4月26日にイギリスのハモンド外務次官がパークスに宛てた通信にある「それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」という文言は内政干渉まで踏み込まないようにパークスに釘を差す意図であった。

薩長の後ろ盾となっていたのは、イギリス駐日通訳官のアーネスト・サトウ。
彼は英字紙「ジャパンタイムス」に匿名で「英国策論」を寄稿する。
内容は、日本の国家元首は幕府将軍ではなく天皇である。従って将軍が貿易益を独占しているのは不当であり、諸藩は自由貿易の権利を持っている、というものである。
これは西国の雄藩が求めていた大義名分であった。薩長は王朝の変更=倒幕が目的であった。ここに気づいたのがサトウだった。

幕末において薩摩、萩、土佐藩内には開国派と攘夷派が常にいた。両派の優勢になった方が藩是となり、藩政を左右した。
例えば、萩藩では始めに長井雅樂の「航海遠略策」を藩是として開国派かつ公武合体派であった。
すぐに長井は失脚し、藩は尊王攘夷派になる。
1863年にアメリカ艦隊に敗北すると開国派が力を持つようになり、尊王討幕派になる。
翌年に第一次長州征伐と下関戦争で敗北すると幕府恭順派になり、倒幕派が処刑される。
その年の終わりに高杉晋作が奇兵隊で決起し(功山寺挙兵)、クーデターが成功すると尊王討幕派になり、明治維新となる。

ロツジルト(19世紀の日本語読み)=ロチルド(現代フランス語読み)=ロートシルト(現代ドイツ語読み)=ロスチャイルド(英語読み)
メツシス=メディシス(フランス語)=メディチの可能性有り

1862年、幕府の遣欧使節団がデント商会横浜市店長でポルトガル領事のエドワード・クラークにメキシコドルで3万ドルを渡し、パリで両替できる為替手形を発注した。
そこにはフランス・ロスチャイルド家の名前があった。幕府とフランス・ロスチャイルド家に繋がりがあった。

当時、日本には外資系銀行が存在しない。
デント商会はジャーディン・マセソン商会と同じく大商社であり、加えて薩長側ではなかったので幕府に選ばれた。

その後の外資系銀行の日本上陸の流れ。当初はイギリス資本ばかりであった。:
1863年3月、セントラル・バンク(イギリス資本。本店はインドのボンベイ。日本初の外資系銀行)
同年4月、マーカンタイル銀行が横浜支店を開業(ボンベイに本店。アラン・シャンドと高橋是清が勤務)
同年10月、コマーシャルバンク横浜支店、開設(ボンベイに本店)
1864年8月、オリエンタルバンク(東洋銀行)(ロンドンに本店)
1865年、バンクオブヒンドスタン(本店ロンドン)
1866年、香港上海銀行(本店香港)
1867年、コントワール・デスコントが横浜支店を開設するも翌年には閉鎖。

上記の銀行の中で倒幕後の新政府に深く入っていったのは東洋銀行。
1868年、鳥羽伏見の戦いの後、新政府は横須賀製鉄所(徳川幕府とフランスの共同)を接収しようとするも、同所はフランスのソシエテ・ジェネラルの抵当に入っていると判明。
額は50万ドル。新政府は幕府から領地を引き継いでいないので資金がない。
新政府はパークスに相談した上で、東洋銀行から融資を受ける。
この時の融資条件は新政府側にとって不利だったが、当時の当局者は金融知識がなく、そのことを理解できていなかった。
大隈重信はオリエンタルバンクに感謝しているくらいである。
メキシコドル(洋銀)50万ドルで年利は15%。返済は元金2ヶ月据置きで1870年10月から毎月5万ドルずつ返済することになっていた。
更に、追加条件として「東洋銀行は日本で銀行券を発行しないので、外国銀行券及び日本政府紙幣による支払いには応じない」としている。
これにより東洋銀行側はソシエテ・ジェネラルとの間で帳簿を変更するだけでいいが、新政府は現金で全てを支払う必要があった。
その後、東洋銀行は鉄道建設、造幣寮、紙幣寮の創設、外債募集などで新政府に食い込んでいく。

紙幣寮(紙幣局)では、大蔵大輔の井上馨が元マーカンタイル銀行のイギリス人アラン・シャンドをを雇う。
造幣寮(造幣局)では、トーマス・グラバーは造幣機を閉鎖した香港の王立鋳貨局(旧香港造幣局)から買い取り、造幣局に売り込む。
更にジャーディン・マセソン商会経由で王立鋳貨局の元長官トーマス・ウィリアム・キンダーが造幣寮首長につく。

なぜ1863年に外資系銀行が設立されたのか?
1863年は萩藩が5月に外国船を無差別砲撃し、7月に薩英戦争が勃発した政情不安定な年に見える。
1863年には孝明天皇が攘夷の実行を幕府に迫った。勅令は幕府を通じて諸藩に知れ渡っている。外資系商社、公使も知っている。
このタイミングで外資系銀行がやってきたの理由はいくつかある。
ひとつは、武器弾薬を売るため。
実際にグラバー商会は外国商社に戦争道具を仕入れては転売している。
ジャーディン・マセソン商会は7000ドルの中古船を2万ドルで、ランスフィールド号は5000ドルで買ったものを12万ドルで萩藩に売りつけている。

上記に加えて、更に重要なのは正しい時に正しい場所に正しいものがあることである。
西欧列強は戦争当事国に外資系銀行を起きたかった。
戦争を行うと当事者国の通貨の価値は暴落する。これは19世紀当時も現在も同じ。
萩藩が外国船に向けて無差別テロを行ったことで、日本国通貨の両とイギリスのポンドの価値が事実上消えてしまい、国際決済で使えなくなった。
この場合には国際通貨を使う必要に迫られる。当時であればメキシコドル。
メキシコドルはアメリカの法定通貨でもあった。銀の純度も良かった。当時は銀の産出の半分以上はメキシコから。
フランス、イギリスは戦争(クリミア戦争、普仏戦争、アメリカ独立戦争、フランス革命、南北戦争)を繰り返しており、自国通貨は国際決済に使うことはできなかった。
結果、幕府も反幕府勢力も国際流通通貨を使う必要に迫られた、そのためには借金をするしかなかった。

ロスチャイルド家の強み
お金を持っていることではなく、通貨発行権を牛耳っていること。
イギリスのイングランド銀行、フランスのフランス銀行(現在はECB)、アメリカのFRBは通貨発行権を持つ中央銀行である。
各国の中央銀行は全て民間銀行であり、株主は国際金融資本家。
これらを手に収めているのがロスチャイルドをはじめとする国際金融資本家たち。
1815年のワーテルローの戦いでナポレオンの敗戦をイギリス政府の48時間前に掴み、市場操作により世界の富のほとんどを手に入れたと言われている。(陰謀論臭い)
イングランド銀行株のほとんどを持っているとも言われる。
クリミア戦争でも彼らはイギリス、フランス、トルコ陣営に金銭援助を行っており、戦後はロシアにもお金を貸す。
国際金融資本家にとっては戦争が最も効率良く権力拡大できる方法。

日本への外資銀行上陸を合図したのは誰か?
イギリスとつながりのあった長州ファイブ。
長州ファイブの伊藤俊輔と井上馨(井上聞多(もんた))ははじめから日本に戻る予定だったのではないか説。
伊藤は2ヶ月分のみ、井上は全く払っていなかった、理由もここにある。
彼らはイギリス滞在の半年間にイングランド銀行を見学している。見学者名簿に名前も残っている。
日本には銀行がなかったので長州ファイブの面々は付き添いの説明人を伴っていた。
長州ファイブをバックアップしたのはジャーディン・マセソン商会。
薩摩スチューデントを留学させたのはトーマス・グラバー。
幕府の遣欧使節団にはフランス政府がついており、パリ万国博覧会に加えてイングランド銀行にも見学にいった。
どちらの勢力にもその背景にはロスチャイルド家の思惑と資金があったはず。
イギリス政府は戦争を望まなかったが、薩長と国際金融資本群はそれぞれの理由により戦争を望んだ。
その後、幕末の志士は国際金融資本側に飲み込まれていく。
具体的には、伊藤博文は大蔵大輔になった時に唯一、銀本位制から金本位制への転換を指示した。当時、金本位制だったのはイギリスのみ。

明治期に入ると日本は江戸期からガラリと様子が変わる。
江戸の260年間(1603 ~ 1868)は戦争はなかったが、明治に入ると政府内部で征韓論が高まり、戦争が頻発する。
10年に一度、大きな戦があり、小競り合いはしょっちゅうある。

国内
1869:戊辰戦争
1874:佐賀戦争
1876:神風連の乱、萩の乱
1877:西南戦争

朝鮮半島絡み
江華島事件
壬午事変
甲申政変
東学党の乱
1894:日清戦争
1904:日露戦争

岩倉使節団と朝鮮半島
1866年にアーネスト・サトウは勝海舟に対して、フランスが朝鮮半島を狙っているのでイギリス側の自分は朝鮮語を勉強していると述べる。
その年にフランスは海図すらない状態で800人兵力で朝鮮に攻め入り、敗戦する。
1971年に岩倉使節団は1年10ヶ月をかけて、欧米諸国とアジア各地を歴訪する(岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳など107人)。
新政府立ち上げの重要な時に外遊したものの成果はない。
結果的に、日本国内が征韓論に傾く。結果、朝鮮との戦争に入っていく。
なぜなら、岩倉使節団のメンバは征韓論に反対であるが、日本に残った西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎は賛成の立場。
総勢107人を2年近く遊ばせておくだけの資金を新政府は持っていないのだから、誰かが征韓論に向けるために資金を出しと考えられる。

明治に続く、大正、昭和も戦争だらけである。

司馬遼太郎によって作られた坂本龍馬イメージ
維新後100年近く無名だった脱藩浪士が、作家の力によって好印象に塗り替えられた。
坂本龍馬自体に力はないに等しく、西郷隆盛、木戸孝允が相手をしたのは坂本の後にトーマス・グラバーがいたからに過ぎない。
竜馬が殺されたのは、グラバーを裏切ったから。
しかし、そのおかげで土佐藩藩主、山内容堂が大政奉還の建白書を出すことができた。
徳川慶喜が大政奉還を行った慶応3年(1867年)10月14日、岩倉具視が画策した偽の倒幕の密勅が薩長にくだされる。
徳川慶喜が密勅と同日に大政奉還をしていなければ、薩長は幕府を朝敵として兵を挙げることができた。
薩長も、金儲けを画策していたトーマス・グラバーも激怒したに違いない。
土佐藩藩主は竜馬が元居たところであり、藩間を取り持ってもいた。犯人として特定されて殺された。

戦後のGHQの民間情報教育局による日本人洗脳計画
War Guilt Information Programにより戦争の全ては日本人のせいだと思い込まされている。
象徴的なのは広島の原爆死没者慰霊碑の「過ちは繰り返しませぬから」の文言。
極東国際軍事裁判で唯一全員の無罪を主張したラダ・ビノード・パール博士もこれについて日本側についてコメントをしている。

NHKはGHQの民間情報教育局によって作られた。
はじめての放送内容は旧敵国アメリカのアイゼンハワー大統領就任式。

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