イングランドでのピューリタン革命(名誉革命)とヨーロッパ資本家

19世紀までは国家間での戦争はヨーロッパに限定され、20世紀に入ると範囲はアジアや中東にまで及ぶ。
これらはヨーロッパの大銀行家の支配圏。
支配圏を拡大する方法として通貨発行権の占有がある。

イングランド革命を率いたオリバー・クロムウェル
1640年に絶対王政を打倒した。
王政復古という国王はの巻き返しがあったが、1688年に名誉革命を迎える。
名誉革命によりイングランド憲法「権利の章典」が制定され、議会の王位への優位が決定する。
議会制民主主義、立憲君主制の基礎になる。

1628年、イングランド国王チャールズ1世は「課税には議会による承認を求める」という請願を提出した議会と対立する。
1629年、議会を解散。指導者たちを投獄し専制政治を敷く。

カトリック同盟(神聖ローマ帝国を中心)とプロテスタント同盟(フランス、イギリス、スウェーデン、ノルウェーなど)の30年戦争が終結。
チャールズ1世は戦費を埋めるために増税を承認させようとする。再び議会と対立し、国王軍と内戦になる。
イングランド内戦は前期においてピューリタンによる国教改革の側面があった。
ピューリタンはチャールズ1世が唱える王権神授説は無根拠と考えていた。三位一体、協会も信じていない。
聖書原理主義の議会軍は、伝統的な階級の持ち込みを否定した革新的組織でニューモデルと呼ばれる。
1649年、チャールズ1世は公開処刑になる。

後にアイザック・ディズレーリが1851年に上梓した「Commentaries on the Life and Reign of Charles the First, King of England」では、革命前後にロンドンならず者の傭兵が現れたことを記している。
その数は最終的に3万にまでなったとある。これらはドーバー海峡を渡ってきた傭兵だった。
彼らを雇うための資金源はヨーロッパの大銀行家たち(民族宗教は多様)が提供。

資本家がクロムウェルに資金提供した理由
当時のオランダはヨーロッパの要衝。
地中海とバルト海を結び、イングランドにも近い。重商主義となる。
オランダは無敵艦隊を誇るスペインから独立すると、ヨーロッパの中心になる。
これは日本へやってくる外国船がスペイン・ポルトガルからオランダに切り替わることからも分かる。
アムステルダムは資本家にとって過ごしやすく、地中海貿易の中心地ヴェニスよりも商業環境が良かった。
当時のアムステルダムの自警団はレンブラントに自身らの絵を描かせた(夜警)。
イングランドの通貨発行権を独占するためにクロムウェルに資金提供。
イングランド革命は自由平等のために行われたのではない。
実際に平等主義者が幅を利かせるとクロムウェルは弾圧側に回る。

イングランド革命後の展開
イングランドは3度オランダと戦争。
第一次戦争はクロムウェル、第二次は王政復古で復権したチャールズ2世、第三次はジェームズ2世(チャールズ2世の息子)。
第三次戦争後、ジェームズ2世は和睦のためにヨーク公(チャールズ2世の弟)の娘メアリー2世をオランダ総督ウィレム3世に嫁がせる。
イングランドの名誉革命はウィレム3世によってもたらされる。
名誉革命は、イングランドの貴族、政治家がジェームズ2世のカトリック専制政治に不満を抱き、ウィレム3世と共謀したクーデーター。
ウィレム3世はドイツ中西部の王家、オラニエ=ナッサウ家の出。これは現在もオランダの王家。
顛末はジェームズ2世はフランスに亡命し、二度と復権せず。
ウィレム3世(イングランドではウィリアム3世)がイングランド国王になり、イングランド銀行を設立する。
イングランド銀行は私企業。資本金の20%はイングランド王家、残りは個人銀行家が持つ。
イングランド銀行は、政府発行の国際を一元的に引き受ける=紙幣の印刷。
これは日銀も同じ。
この手法で資本家は通貨発行権と信用創造権を手に入れる。
スウェーデン銀行は1668年に設立された1番目の中央銀行だが通貨発行権を持ったのは1701年。
イングランド銀行は2番手だが、通貨発行権ははじめからあった。