あまり書くことのない秋

と、まあいきなり本作のキャッチフレーズである「もう一度出せる秋」を弄ってみたわけである。
ライトノベルを書くにあたって、普段は小説自体を読まないんだけど流石に何も読まないまま執筆に取り掛かろうとするのは無謀なんじゃないのかと思ったので、本棚に残っていたものを読むことにした。
それが森博嗣の四季 秋である。
刊行2000年代に四季シリーズが順次発行された時に一通り読んだはずなのだけど、秋は印象が薄く、内容をほとんど覚えていなかった。これが上記のライトノベルの執筆に加えて読み直そうと思い至った理由でもある。
四季シリーズの秋はS&MとVシリーズをつなぎ、百年シリーズへの跳躍を予感させる作品だ。
実際に読み始めてみると、意外と内容を思い出すものである。
読んだことのある人であれば分かると思うけど、目立った物語が描かれているわけでもないし、隠れたテーマ性もあるのかないのか釈然としない。
S&Mでのデビュー当時からキャラクタ小説の色合いが強かった森博嗣はVシリーズになり、増々その方向性を強めていった。そのひとつの臨界点としての四季シリーズはある気がする。
特に四季 秋はその要素が強く出ているせいでファンサービスのために書かれた作品であるようにすら見える。
商業作家なのだから読者におもねることもひとつの仕事ではある。批判する意図はない。

あえていうならテーマは愛かな

なぜ愛なのかというと、四季 秋の物語では様々なカップルが登場して自分が思いを寄せる相手に対しての心情や態度を吐露するからである。
始めに書いたようにそもそも、この作品自体が今までの作品群を読み続けてきた読者の愛に対して作者の森博嗣が応えたものであるから、この線の解釈も許してもらえないだろうか。
これがアウトだとすると、正直、ほとんど書けることがない。苦笑するしかない。
順番に見ていこう。

森博嗣と読者

S&M、Vシリーズと作品を積み重ねてきた氏の世界観には読者の側からある仮定がなされ続けていた。それは2つのシリーズの繋がりである。
本作では作者の側から答え合わせがされている。それまでは、ほとんど正当に思えるけど残り一歩の確定証拠(=作り手からの答え)を欠いていた読者からすると気持ちが楽になったことだろう。
Vシリーズに登場するキャラクタの後日談として読むこともできる、正に森博嗣からファンへの愛のこもった小説である。

西之園萌絵と犀川創平

これが一番分かりやすい。
この二人はS&Mの当初から恋愛関係を拗らせてきた。
犀川は大学の教員であるし理系のコミュ障研究者なので教え子である西之園萌絵に積極的に手を出したりはしないが、西之園萌絵はといえば対極で何かチャンスがあれば犀川と二人きりになって距離を縮めようと努力する。
その二人の関係が急接近する、犀川創平は西之園萌絵に指輪を贈り、真賀田四季への手がかりを脳内検証することで外界への意識が薄れていたとはいえ、萌絵との婚約に肯定の返事をする。そして両家の親族は萌絵のマンションで会食する。更には犀川と萌絵の二人だけで、真賀田四季へが妃真加島の自室に残したヒントを頼りにイタリアのモンドヴィに出かけるという始末。そして、色々あって帰国した犀川は周囲からの誤解を全く気にせず、その体験を公言して回る。それに喜ぶ西之園萌絵という多少痛い構図になっているが、長年、二人の関係を見届けてきた読者にとってはこの急接近も抑えつけられていたものから開放されたようでプラス評価になるだろう。
森博嗣作品は性的なことを生々しくは描かないからね。本作では精子という言葉が何度か出てくるが、至って科学的なニュアンスを持って使われているので全く下卑た感じがしない。この単語をここまで淡々と使うことで出来るのは森博嗣の技といっていいかもしれない。だからなんだ。

保呂草潤平と各務亜樹良

保呂草潤平が彼の元を去った各務亜樹良を探し続けている描写が続く。そしてイタリアで邂逅する。
どちらも堅気の人間ではないので終始、二人の騙し合いと危うい信頼関係が描かれている。
この様子がひよっこである犀川・西之園カップルとは違っていて、恋愛慣れを超えてどんな人間でも騙して手玉に取る術を知っている感じが見て取れて面白い。
この二人はどっちもサイコパスだろうな。

真賀田四季と娘ミチル

ここからは男女間の恋愛ではなくて、親子の間の愛情になる。
物語で直接には登場しない真賀田四季ではあるけれど、とある場面で立体映像として上の4人の前に現れる。
そこで語られることがおもしろい。
まず、森博嗣の処女作である「すべてがFになる」で真賀田四季は妃真加島の研究所にある部屋で産み落とし育てた娘を殺した殺人犯という扱いになっているが、これは否定される。
四季曰く、あれは感電によって死んだのであり四季自身が手を下したのではない。更に自殺であったと考えている。
面白いのは次で、西之園萌絵と会った時に真賀田四季は今まで自分は涙を流したことがない、と言ったがあれは嘘あったと吐露している。つまり、娘が死んだ時あるいは物故者を解体した時に四季は泣いたのだと言う。
どれも真偽は分からない。
なので、これを今まで知らされていなかった真実が明らかになった、と見るか、疑問が深まったと解釈するかは読者に委ねられるだろう。
俺はなぜか素直に受け取った。
というのいうのも、そう受け取るような圧力付けが作中でなされているので、森博嗣としてもそちらへ解釈をしてもらえるように流れを作るリソースを支払っていると見えたからだ。
それが何か、というと端的に言うと真賀田四季が娘の遺体を切り刻んだこととレゴブロックの消失を結びつけて、それを犀川達がイタリアへ向かうための装置として組み込んでいる、というもの。
ここまで四季 秋の中核と結びつけておいて、実は四季の発言は全て嘘でした、というのではあまりに空虚だからだ。

瀬在丸紅子と犀川創平

この項に至って、犀川は愛されキャラだな、と痛感する。
リアルにいたら絶対にそんなことなさそうだけども。
本作のほとんど終わりに西之園萌絵が犀川創平の母親の元を訪れる場面がある。
なぜそんなことになるのかというと、保呂草潤平が犯罪者であることを知りながら見過ごす犀川を萌えが訝しむ。加えて、犀川の妹である儀同世津子に接触してきた男は偽名を使っており、本当はそれが保呂草であった、とは彼女に伝えていないと知り、萌絵はその理由を問い質す。
犀川としては保呂草潤平を心情的に庇いたい。儀同世津子の母親は警察の人間であり保呂草を追っているから、もし妹が保呂草が国内に居ることを知るとそれが母親にも伝わり大事になるので避けたい。その流れで萌絵は犀川と世津子には母親が別々に居ると思い至る。そこで、犀川の母親に会いたいと萌絵が提案したところ、その場に犀川がいないことを条件に了承が出る、という流れ。
本題に戻る。
犀川の母親とはVシリーズの探偵役である瀬在丸紅子である。
萌絵と話をする中で小難しい話は一切しない。それでもその知性の優秀さを萌絵は随所に感じ取る。
瀬在丸紅子の家を犀川はずっと訪れていないので一度連れてきてほしいと、紅子は萌絵に語りかける。紅子は息子を想っている。
萌絵視点でのハイライトはこの後にやってくる。
真賀田四季の巨大過ぎる能力に心を奪われる犀川を日頃から見ている萌絵は、四季に嫉妬している、と紅子に告白する。
一方、紅子は自身の家にも顔を出さないそれでも尚、愛する息子が萌絵の愛情の対象になっている。
これをどう思うか、と問う。
紅子はこう返す。

「貴方が、太陽を好きになったか、扇風機を好きになったか、の差です」

太陽とはみんなに満遍なく愛情を注ぐ者を指し、扇風機はその反対だ。
更に紅子は、先夫を引き合いに出し、この違いはどこから来るのか考えてみた、と言う。

「私も若い頃に、ずいぶん、それで苦しみました。あの人が、扇風機みたいに首を降って、私の方だけを向いてくれない。でも、彼を扇風機にしたのは誰か……」紅子は首を傾げる。「結局は、私の問題なの。私の認識だったのね」
「それは人を許すということですか?」
「いいえ、自分を許すということ」

外界への認識は自分が作っているのであって、それは仕方がないことなのだ、と萌絵を穏やかに諭す。
ずっと紅子のところへ顔を出さず、何も告げない息子であっても紅子は愛している。それは紅子にとって犀川創平が太陽だからである。萌絵の愛はそこに何も介在することは出来ない。
だから、私に遠慮することなく息子のことを愛してやってほしい、という文章にも読める。
瀬在丸紅子は本当に良いキャラクタ造形が出来ている。
思わず、犀川たまには親に顔出してやれよ、と思った次第である。

終わりに

大勢と真賀田四季についても書こうと思ったんだけど、単調になったので辞めにしておきます。また気が向いたら更新するかもしれない。
西之園萌絵と瀬在丸紅子の会話だけでもたまに読み返したくなるね。